YALLAH!で仕事をするようになって、一番感じることが多くなったのが、「差別や偏見」と言うほどではないけれど
「気を使われるだけでは足りない、何か」
の方がよっぽど横行していて、気がついたらモヤモヤが残るという感覚だ。
例えば、シスヘテロ女性の私に多いパターンが、仕事の内容を明かすと
「…じゃあ、宮川さんも?」
とジェンダーについて聞いてくる人が圧倒的に多いと言うこと。
「私はシス・ヘテロです」
「…?」
「シスと言うのは、身体的な性と性自認が同じであること、ヘテロは異性愛者です」
「…てことは、普通の女性ってこと?」
「……」
「普通って何なんでしょう…?多くの方が想像するマジョリティの女性なのかもしれないですが、私にとっての普通の女性はあなたが思っている普通の女性とは異なるかもしれません。私のジェンダーについてはこれから変わることもあるかもしれませんし」
などと、自身の中の正規の回答を言えることなどないので、静かな笑顔でその先の対応を考えることになる。そして、その後に100%必ず帰ってくる「若干、めんどくさい」と言う無言の圧力に耐えながら、もっと話をややこしくする羽目になる。
一方で、LGBTsの世界では「ジェンダーには気を使うのに、アウティングとセクハラにはザル」みたいな体験が多い。
仕事の内容を明かすと
「じゃあ、パートナーさんがFTMなんですか?」
「…」
「て言うか、おーみちさんとはどういう関係なんですか?」
「…」
「当事者に明かす分には、他人のジェンダーに言及してもアウティングにならない」「パートナーや信頼関係のある人間ならば、本人に許可がなくともジェンダーを明かしてもいい」というような暗黙の了解みたいなものが、うっすらと膜を張っている。(あくまで私感です)
「出来れば本人に聞いて頂けると」「察してください」
などと、もちろん言えるわけもなく、こちらも人によって対応を考える。
何かいい言葉はないものかと考えることが多いのだが、結局、自分の中に棘が入っていることにも気づくのだ。
「当事者か、関係者でないとサイト運営しちゃダメでしょうか…」
どのパターンも怒りを抱いたり、落ち込んだりするようなことはなく、それが原因でその人を嫌いになることなど、当然ないくらいのレベルの話だ。
けれど、これを見過ごして良いのかなと思うような感覚に陥ることがある。
「差別ではない。ちゃんと気を遣っているけれど、それでは足りない何か」
他人を変えることは出来ない。
けれど、自分が思っていることは伝えることが出来る。
相手の会話からスウィートスポットを探しつつ、自分の言いたいことも含ませることは、技術的な問題だと思うから、ある程度改善出来ると思うし、時間や接触回数が必要な場合もある。年齢や職業、出身地などの社会的な立ち位置が、それがいい具合に作用する事もある。
そして、そのすべてが差別につながる恐れがあること。己を開示して、嫌われる覚悟をすることは、幾つになっても容易なことではないと思った。
もちろん、悪いことだけじゃない。
私はこの世界に入ったことによって「どこにも居場所が無くなった」と言う、妙な疎外感を味わうことになった。
それは当たり前の事でもあり、新鮮でもあり、面白くもあり、そして、時々不安だ。
けれど、きっとそれは、私の世界が広がったことに他ならない。
物事を知ると、どんどん自由に、独りに、軽くなっていく。
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